大学生の戯言

大学生です。映画、ドラマ、音楽好き。ちなみにゲイ

ゲイとかホモソーシャルとか「男」とか。

 

ゲイであることを辛くしているのは、他でもなく「男」なんだと思う。別に男なんていなければって思ってる訳では当然無くて、理想化された「男」、決められた価値観しか持ち合わせていない「男」。そういう人がゲイを嘲笑したり揶揄したりする。

 

色々本読んでみて、自分の経験も踏まえてこの現象を考えてみたい。まず異性愛者の男性はまず、自分が「男」であることを証明したがる。それは、他の「男」からの承認が欲しいから。そうすることが彼らを何よりも高揚させるから。男同士の絆、いわゆるホモソーシャルな関係を築きたいから。そこには同質な存在しか必要なくて、女性とか同性愛者をはじき出そうとするエネルギーが働く。

 

そのエネルギーが働いている例の一つは、「女々しい」男子をからかったり、いじったりすること。「女々しい」話し方してるからと言って別に害なんて無いのに執拗に言及してくる。それは「男」ではないから。そんな男は仲間ではないから。

 

また、男同士でいちゃいちゃしてる、とまではいかなくとも、距離が近いと必ずと言って良いほど飛んでくる言葉が「お前ホモかよ」っていう言葉。いやこちとらそうですけど?って言い返しそうになる。しないけど。この言葉やっぱりゲイの存在なんてないものにしようとしている言葉だと思う。

 

こういう会話は日常茶飯事。特に、中学、高校時代の閉鎖空間では異質なものを排除しようとする一種の「浄化作用」みたいなのは強かった記憶がある。

 

でもそこまでして躍起になってゲイを攻撃しなければいけないのは、「男」の存在がゲイと限りなく近いからという皮肉も指摘したい。そもそも、「男」は「男」同士の絆を優先する。「男」が大好きなのだ。ほぼゲイと同じようなものなのだ。あまりに類似しているからこそ、それを認めたくなくて、摩擦を起こそうとする。それがいわゆる同性愛嫌悪的な言動につながっていく。

 

ホモソーシャルな関係を築くために、そして「男」であることを示すために、ゲイを攻撃する構図。情けないなと正直思う。自分のアイデンティティーを形成する術が他者を貶めることしかないなんて。もっと他にやりようはないのかと言いたい。逆に、同性愛嫌悪は自分のアイデンティティーが揺らいでいることの証拠、不安と脆さの表れとも言えるのではないかと思う。

 

あくまで自分の経験則だし、偏見と言えばそうなのかもしれないが、ゲイをからかってくる人の多くは、どこか自信がなさげで、でもそれを認めたくなくてプライドは高いタイプが多かったような気がする。そもそもゲイとか関係なく、一般的に自分に余裕あるひとは人の悪口言わないっていうだけかもしれないが。

 

また殴り書きで論理通ってない気もするけど、とりあえず垂れ流します。ではでは。