大学生の戯言

大学生です。映画、ドラマ、音楽好き。ちなみにゲイ

「LGBTQの人」っていう言葉の使い方、やっぱりおかしいよねっていう話。

友達と話していて、ん?と違和感を抱いた言葉。「LGBTQの人」っていう言葉。

 

この言葉を使う人、少なくともLGBTQっていう言葉を知ってるくらいには性的マイノリティに対する意識があって、社会の流れについていこうってい気もあるんだろうけど、だからこそくせ者であると思う。

 

そもそも、なんでこの言葉がおかしいのかというと、「LGBTQの人」なんて存在しないから。レズビアンの人、ゲイの人、等々はもちろんいる。けどこの頭文字全部の性質を持っている人なんて存在し得ない。例えば、G(つまり男の同性愛者)でありつつ、L(つまり女の同性愛者)であるっていうのはおかしい。だって相反するものだから。ちなみに、L,G,BとTは同時に持ち合わせることはある。例えば、生物学的性は女性で性自認は男、かつ性的志向が男性に向く場合は、ゲイのトランス男性ということはできる。けど結局LGBTQ全てを持ち合わせる人はこの世に存在しない。だから言葉の使い方としてはおかしいと思う。

 

LGBTQは、例えばG、つまりゲイの上位分類だからと使っている人もいるかもしれない。総称だからその中に含まれるでしょうみたいな感覚。けど、他の頭文字をとった言葉で同じように使うかというとちょっと違う気もする。たとえば、春夏秋冬っていう言葉がある。だけど「春夏秋冬はあけぼの」とは言わない。春はあけぼのだし、夏は夜。春夏秋冬はそれぞれ違うからそのどれかを指す時に、「春夏秋冬」という総称を使うことはない。他にも、老若男女っていう言葉あるけど、若い男性を指す時に「老若男女」という言葉をチョイスする人はいないんじゃないかと思う。

 

ではなぜ、「LGBTQの人」という語用、というか誤用が蔓延っているのかというと、単純に理解不足、かつ知ったかぶりをしているからだと思う。もちろん言葉の使い方の感覚とかニュアンスってその人にしか分からないものだけど、LGBTQそれぞれが何であるかきちんと理解していればこの間違い方をしないのではないかな。

 

この誤用をする人にはともすれば、性的に一般的な規範、というか「普通」から外れている人はとりあえず「LGBTQの人」と言っておけば今風だし、大丈夫だろうみたいな雑さがあるようにも感じる。だけどそれは、むしろオカマ、とかオネエとかのいろんなセクシュアリティジェンダーアイデンティティーを十把一絡げに扱う言葉に近しいものだと思うし、ここにある雑さって結構暴力的でもあると思う。当事者からしたら適当にあしらわれているようにも思えるから。

 

正直今回のテーマ、気にしない人は気にしてないだろうし、自分が細かいところを気にしているだけかとも思うけど、一応したためておきます。ではでは。

宇多田ヒカルの「ともだち」歌詞考察。同性愛者の目線分かりすぎてる件。

先日、宇多田ヒカルが新曲「BADモード」をリリースした。語彙力が無いのでその良さを伝えられないけどめちゃくちゃ良い。それを記念して(?)前々から個人的な大好きな大好きな曲、「ともだち」の考察をしていきたいと思う。

 

この曲spotifyでは300万回再生くらいで、他の曲の再生回数(例えば、同じアルバムの「道」の950万回再生、「花束を君に」の1900万回再生)に比べるとあまり人気ないのかな、と思うけど全人類に聞いて欲しいくらい良い曲。なんと言っても同性愛者の目線をあの宇多田ヒカルが歌っているというのがもはや奇跡。ていうか、JPOP界のメインストリームでこういう曲を歌っている歌手ってほぼ存在しない気がする。アメリカやイギリスの歌手ではいっぱいいるのに、なんだかんだメディアへの表象まだまだ少ないのだと思う。

 

で、「ともだち」のどこがいいのかというと表題にもあるとおり、同性愛者のそれもクローゼットにいる人たちの秘めた思いを赤裸々に吐露しているところ。歌詞全編を通して共感の嵐。

 

"友達にはなれないな"

"もう君の一番じゃないと意味が無いから”

 

絶対周りに悟られてはいけない、けどある人を思う感情もあるジレンマを表現している。あとこの「もう」って入ってるのも憎い。これ今までは一番じゃなくても良かったっていう事だと思う。つまり、友達、もしくは知り合いくらいの関係性で、仲良くしていたのに気づいたら恋愛感情でその人を見ていた感じだと思う。一目惚れとかで好きになったらそれまでの関係値がない分、引きずらないで済むことが多い。けど、今までは何番目でも良かったひとが急に一番じゃないと駄目になる、その独占欲とか嫉妬心に自分自身で辟易しつつも気持ちは抑えられない。

 

2番の歌詞のお気に入り、というか刺さった箇所は

 

"とても上手に嘘はつけるのに 心は馬鹿正直”

 

さらっと歌っているけど、クローゼットにいる人は自然と嘘が上手になっていく、というかそうせざるを得ない現実を反映させている、哀しさもある歌詞だなと思う。言いたい人はみんなオープンにできるようになるといいなと思う。この曲が入ったアルバムがリリースされたのは2016年だから6年経ってるけどまだまだそうはいかない社会かな。

 

曲全体を通してほぼ共感しかないけど、唯一ちょっと賛同できないのは

 

”キスしたい ハグとかいらないから”

 

ていう部分。いやハグも必要やろっていうのが正直な感想。絶対そっちの方がええやろって思う。けど、この部分がハグいらないってなってるのは肉欲に近いものを表現したかったのかなと思う。同性愛者は普段中々出会いない分、たまってるものがあって余計にそういう欲も湧いてくるんだと思う。そういう意味では腹落ちする歌詞でもある。

 

宇多田ヒカル本人はノンバイナリーを公表していて、同じアルバムに収録されている「2時間だけのバカンス」のMVもいわゆる百合的な艶やかというか危なげなさを感じさせる。もしかしたら本人もそうなのかな?ちょっとそうであってほしい願望もあったりなかったり。。。

 

ゲイとかホモソーシャルとか「男」とか。

 

ゲイであることを辛くしているのは、他でもなく「男」なんだと思う。別に男なんていなければって思ってる訳では当然無くて、理想化された「男」、決められた価値観しか持ち合わせていない「男」。そういう人がゲイを嘲笑したり揶揄したりする。

 

色々本読んでみて、自分の経験も踏まえてこの現象を考えてみたい。まず異性愛者の男性はまず、自分が「男」であることを証明したがる。それは、他の「男」からの承認が欲しいから。そうすることが彼らを何よりも高揚させるから。男同士の絆、いわゆるホモソーシャルな関係を築きたいから。そこには同質な存在しか必要なくて、女性とか同性愛者をはじき出そうとするエネルギーが働く。

 

そのエネルギーが働いている例の一つは、「女々しい」男子をからかったり、いじったりすること。「女々しい」話し方してるからと言って別に害なんて無いのに執拗に言及してくる。それは「男」ではないから。そんな男は仲間ではないから。

 

また、男同士でいちゃいちゃしてる、とまではいかなくとも、距離が近いと必ずと言って良いほど飛んでくる言葉が「お前ホモかよ」っていう言葉。いやこちとらそうですけど?って言い返しそうになる。しないけど。この言葉やっぱりゲイの存在なんてないものにしようとしている言葉だと思う。

 

こういう会話は日常茶飯事。特に、中学、高校時代の閉鎖空間では異質なものを排除しようとする一種の「浄化作用」みたいなのは強かった記憶がある。

 

でもそこまでして躍起になってゲイを攻撃しなければいけないのは、「男」の存在がゲイと限りなく近いからという皮肉も指摘したい。そもそも、「男」は「男」同士の絆を優先する。「男」が大好きなのだ。ほぼゲイと同じようなものなのだ。あまりに類似しているからこそ、それを認めたくなくて、摩擦を起こそうとする。それがいわゆる同性愛嫌悪的な言動につながっていく。

 

ホモソーシャルな関係を築くために、そして「男」であることを示すために、ゲイを攻撃する構図。情けないなと正直思う。自分のアイデンティティーを形成する術が他者を貶めることしかないなんて。もっと他にやりようはないのかと言いたい。逆に、同性愛嫌悪は自分のアイデンティティーが揺らいでいることの証拠、不安と脆さの表れとも言えるのではないかと思う。

 

あくまで自分の経験則だし、偏見と言えばそうなのかもしれないが、ゲイをからかってくる人の多くは、どこか自信がなさげで、でもそれを認めたくなくてプライドは高いタイプが多かったような気がする。そもそもゲイとか関係なく、一般的に自分に余裕あるひとは人の悪口言わないっていうだけかもしれないが。

 

また殴り書きで論理通ってない気もするけど、とりあえず垂れ流します。ではでは。

ゲイであること。

つい数ヶ月前、初めて友達にカミングアウトをした。声が震えた。喉をくっと締め付けられるような感覚。額をつたう冷や汗。なんでこんなに緊張するものなんだろう。

 

中学校くらいから自分のセクシュアリティを自覚してから、20歳になるまでそのことを誰にも言う勇気がでなかった。周りの友達はみんないい人だし、家族も凝り固まった感じではない。だけどそれでも誰にも言えない。それでたまに病むときもある。基本元気だけど、「普通」がよかったなみたいな感覚に陥る。

 

特に、同性を好きになる人にとって、恋バナって拷問のようなものだと思う。楽しいけど、カミングアウトしてない場合、基本嘘つくか、やんわりしたこと言うしかない。例えば「好きなタイプは?」ていう質問。相手が男だったら女の、女だったら男のタイプを答えるのが「当たり前」になってるけどその前提から置いてけぼりにされる。だから「あんまりそういうのないっすね~」と適当に流すことが多い。クローゼットにいる人は、みんな「嘘つき」にならざるを得ない。自分はそうだった。

 

それを続けてると、自分でも嘘ついてるのか、本当のこといってるのか分からなくなってくる。それでもって自分の言葉が自分の思考からどんどん乖離していく感じ。

 

あと、好きな人ができても、基本的には実らないもんだからって諦めるしかない。こればっかりはしょうがない。同性愛者の数は統計によってまちまちだけど、5%とかそれくらい。たまたま日常生活で出会って自分が好きになったひとが同性を好きな確率、さらにその人が自分のことを好きになる確率なんて限りなく低い。だから、諦めるのが定石。しかもそのことを相談する人もいないとなると、感情の置き場もなくなる。そういうときは感情を「殺す」。何事もなくなるのをただひたすらに待つ。

 

自分の感情を抑えつけるのが常になってくると、やっぱり自分の感情もよく分からなくなってくる。あれ、楽しいってなんだったっけってたまになる。

 

そうなると、幽体離脱してるような感覚を覚えるようになった。人と会話していても、そこに存在してない感覚。いや、もちろんそこにはいるんだけど、あとから会話の内容振り返ると自分が言ったことでも、あれ会話してたのって誰だっけみたいな。ずっとふわふわしてて、自分を俯瞰してみてる自分がいて、それを俯瞰してる自分もいて、それをまた、、っていう脳みそパンク寸前になる。

 

つらつら書いてたらまとまりがなくなってきたので今回はこれくらいで。

 

 

はじめまして

 はじめまして!コロナで暇なので始めてみました大学生の中の人です。


 このブログでは僕の好きな洋楽や洋画、海外ドラマなどの情報発信をしていきたいと思います。あと少しだけプライベートのお話もしていこうかな〜と思ってます。


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